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Article Dans Une Revue 死生学・応用倫理研究 Année : 2015

墓碑と記念碑―紀伊半島における社会・環境的災害と災害犠牲者の記憶を支えるもの

Résumé

大阪でフィールドワークを行った際、1854年に町を襲った地震津波を記念する一つの記念碑の存在を知った。その津波とは、日本列島全体で数千人におよぶ死者を出した安政の大津波(安政南海地震津波)である。この記念碑は1855年7月に地域住民によって建立されたもので、現在は浪速区幸町三丁目、淀川に架かる大正橋の詰にある。この碑の維持管理は有志の会である中河内拓本クラブによって行われている。この会は毎年、碑文に新しい墨を加えることで記念碑を修復している。碑の隣には小さな礼拝堂があり、今も定期的に祈りにくる人々がいる。そこからそう遠くないところに掲示板が立っていて、記念碑に記された文章の内容が要約されている。記念碑に刻まれているのは、津波を生き延びた者たちによって伝えられたこの大災害の歴史と、そこから引き出されるべき教訓である。一つの記述が私の注意を引いた。そこには、地震が起こったら絶対に川に避難してはならないとあった。大阪で起こったこの地震と津波の歴史について調べるうちに知ったことだが、当時は地震が起こったら舟で川に逃げるということが事実よくあったのだ。不幸なことに、1854年11月4日、地震に続いて発生した大津波は、大阪港に到達すると、安治川と木津川をさかのぼりながらすべての舟を押し流し、数多の死者を出すこととなった。そこで当時の生存者たちは自分たちの体験を後世の子孫たちと共有する決意をした。そのため、一連の出来事とその日人々が犯した対処の誤りとを石に刻むことによって、自分たちの記憶を忘却から守ろうとしたのである。野本寛一ならば民俗連鎖の環と呼ぶであろう(野本、1987)この一つの要素から出発して、私はこの記念碑が持つ意味作用を考えてみた。この記念碑は他のいかなる民俗現象に結びついているのか? また、それら民俗現象は社会・環境的災害の防止にどのような役割を果たしており、どのような文化的力学のなかに組み込まれているのか? これらの問いを明らかにするためには、同種の別の碑の調査に取り掛かる必要があった。大阪中之島図書館において紀伊半島における災害の歴史を精査した結果、大阪地方に大災害をもたらした自然変動は、その巨大な影響を日本列島の他の地域にも及ぼしたことが判明した。そうして、三重県北牟婁郡紀北町と熊野市とのあいだに位置する東南紀沿岸地域に、西日本に数百を数える安政南海地震の記念碑のうち、約十基を発見した。文献調査、実地観察、現地住民へのインタビューの結果、それらの碑が複数の種類に分類できることがわかってきた。そこで、記念碑の機能を考察する前に、2012年10月に尾鷲市地域で実施した民族誌学的調査に基づき、記念碑の類型論の構築を試みる。だがまずは、自然変動(危険ないしハザード)、自然災害、社会・環境的災害というそれぞれの概念のあいだにある違いを明らかにするとともに、自然変動から社会・環境的災害へと事態が変容していく社会・文化的変容のプロセスを簡潔に説明することから始めよう。
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Citer

Grégory Beaussart. 墓碑と記念碑―紀伊半島における社会・環境的災害と災害犠牲者の記憶を支えるもの. 死生学・応用倫理研究, 2015, 20, pp.31-51. ⟨hal-01127687⟩
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